※性的な話が苦手な方は読まないほうがいいかもです(かなりマイルドな表現には抑えてます)
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私の漫画やエッセイを読んだことある人ならなんとなく知っているだろう。要所要所で私がちょっと性的に奔放だったこと、そこに救いがあったことを書いてきた。
今回は「人生嫌すぎて夜の街で遊んでた時のこと」を書いてみる。
なぜなら、普通ならあんま人に話せない赤裸々なことを書いちゃうところが、ちょっとズレてる私の強みだと思っているし、普段こういう話題を話したくても話せない子と、深いテーマでお喋りできるようになるかもしれないからだ。
性的な物事に感じる安心感
これまでたびたび書いてきたが、社交的な振る舞いや常識、マナーに対する苦手さ、そしてなにより異常なストレスと緊張が私を性的な世界に駆り出していた。子ども時代から。
そして、例にもれずちょっとした性的なトラウマを持って育ってきた。それについて全てを話した相手というのはいないと思う。病院とかでさえ。
性の世界は、みんなの昼間の真面目ぶった顔とは対極にあるものだ。私はそこに安心感を見出していた。
とにかく「しっかりした真面目な振る舞い」は苦手だった。緊張とプレッシャーですぐサボろうとするし、「暗黙の了解」的な常識がわからなかった。
だからといって夜の世界で働けるようなコミュニケーション力も気遣い力もなかったし、家で一人でエロコンテンツをやって仕事していく情熱も気力もなかった。
「そういう界隈」で交流していた時期
私は大人になって自暴自棄だった。かなり良い歳になってもアルバイトさえ続かず、悶々としていた。
ある日「そういう界隈」の集まりを知った。ちょっとした性癖を語るような集まりである(具体的には言えずすみません)。
「行ってみよ」。そう思った。その時わたしはかなりの世間知らずだった。怖いもの知らずだった。今考えたら、知らない人ばかりで、ちょっと怪しくてどんな目に会うかわからない雰囲気なのに行っちゃったのである。
界隈は大体、まぁ、スケベなことを語りたい男性たちと、キャッキャしたい女性たちがいた。そこでの交流を私は楽しんだ。(法律にひっかかることは何もしてないですよ!)(乱交もしてない!)
自己肯定感、そして戻る現実感
私は基本的に恋愛でしか離人感が解消したことがない。だって、人との密な触れ合いってのは、生き物としての根源だし、それくらいストレートで強いことでしか私はもう安心しないのだ。
まぁ、そこでの交流は恋愛ではない。でも、溢れる自己肯定感。生活と気持ちの張り合い。お化粧とファッションで可愛くしてったら、褒めてくれる、私という存在を必要としてもらえる。
まともに働いてもないのに充実した心で過ごしていたら、ある日、離人感が晴れて現実感が戻った(5分くらい?)。恋愛で離人感解消っていっても、そのようにいつも数分間レベルである。でも、あの時の素晴らしい感覚はまだ覚えている。
自分に自信があった。自分のことを好きに思えた。なんかよく「まず自分のことを愛さないと云々~」とかいう言葉をよく聞くが、そんなの私にとっては嘘。全然、人から求められるのが早い。自己肯定感は離人感を突き破ってくれた。
その集まりにはX氏(仮名)という、ちょっとモテる男性がいて、その人が私のことを気に入ってくれて、二人で過ごすことも多かった。その嬉しさも私の自己肯定感に寄与していた。
で、後でわかったが、私は彼にとって不合格だけど「つなぎ」の存在で、しかも裏で良いように「利用」されていた。
騙されるし搾取されるし
具体的には書けないけど、いろいろと騙されていた。多分、私の好ましくない情報も裏で共有されてたと思う。
私が把握できてないだけでデジタルタトゥーがある可能性もある。X氏に私の情報は全て消させたが、そういう世界で流れてるかもしれない。
というかその界隈に限らず、過去にいろんなとこでやらかしをしたので、まぁ正直「なにかしら私のヤバいものが、どこかにあって、いつ出てきてもおかしくない」と思って過ごしている。
デジタルタトゥー、まじでよくない。世間をまだよく知らない若い子は、自分でもよくわからないうちに尊厳を搾取されていることもある。後で意味がわかって深く傷ついたり、何かに利用された自分の情報をもう取り返せなかったりする。
私もあとで気づいたことが山ほどあった。「あれって言いくるめられてたんじゃん・・・」「大丈夫大丈夫~って言われてたけど、全然大丈夫じゃなかったじゃん」と気づいてショックを受けた。
自分が大人になって「あれって、ありえなくね?」とか。いや、私が遊んでたとき結構もう大人だったけどね・・・。
性的な搾取をする側は、自分がデジタルタトゥーになるわけでもないし、自分が傷つくわけでもない。人を操る術をよくわかっている。「この人は私のことわかってくれるから信用できる」と思わせるトーク術がある。
そうなっているとき、人に「やめたほうがいいよ」とか言われても貸す耳はあまりない。でも、飲み物に変なもの混ぜられたりしてからでは遅いのである(私は幸い、それはなかったが)。
集まりからの卒業
そのうち、ちゃんとまともな恋愛が発生したので、集まりから抜けた。
その集まりにいたのはたった数か月だったけど、その間に私はいろんな世界の扉を開いた。見識が深まったという意味では良かったが、総合的にみて完全に「人生の汚点」である。
(性癖を語る場やそこに行くこと自体が汚点だったのではなく、そこから派生した関係性や出来事がいろいろやばかったという話ね。)
みんなは人生の汚点は作らないほうがいい。私はこの記事で、起こった出来事の15%しか書いてない(ドン引きされるから書けない)。
でも、熟した年齢の大人になってくると、そういう過去の体験を大人の女性と語れる機会も生まれるようになったのだ。なんか、みんな、結構失敗している。そして「その失敗を若い女子に味わわせたくない、同じ思いをさせたくない、脅威から遠ざけねばならない」という啓蒙の気持ちも生まれてくる。
この記事を書いた背景には、私は現在かなりのオキシトシン(幸せホルモン)不足を感じているというのがある。あん時って、いろいろヤバかったけど、かなりオキシトシン出てただろうな~って。
どうしたらいいと思いますか? この問題。
孤独感でしにそうなときって、そんな人生の汚点でも、そこにあった救いを恋しく思ってしまうのです。
すみません。こんな結末で、怒らないでください。
終。